ツースリーからの6球目、わが子が思い切り振りぬいたバットからは、快音は響き渡らず、打球は平凡に内野に弾んだ。力無い打球は二塁手が難なく捌き一塁へ送られ、一塁塁審が右手で拳を振りアウトを宣告した。この瞬間に彼の学童野球での公式戦全ての打席が終了した。一塁ベースを駆け抜け天を仰いだ彼の眼には春の柔らかい陽の光が眩しかっただろう。その心地の良い春の陽が、今の彼にどう感じられたかは定かではないが、少なくとも私には清々しく満足そうに光の中を駆け抜けたように見えた。
ベンチへ戻り、ヘルメットを脱ぎながらバットを置く逞しく、大きくなった背に目をやると、自他共に認めるゆるぎない「2」の数字が凛々しくそこにはある。
新チームになって約1年、本来捕手を任されるはずだった選手が肘を痛め、若干の器用さだけで仕方なしに捕手に転向させられたのがそもそもの始まりだが、生まれ持った肩の弱さは如何ともし難く、捕手としては致命的であった。一塁にランナーが出る度に二塁盗塁はフリーパス、当然、チーム失点は増え、なかなか締まった試合ができず、いつもチームに迷惑をかけ続けていた。監督には試合の度、練習の度にどやし続けられ、いつ心が折れてもおかしくない鬱に近い状況が続いた。このままではこの子の野球人生がここで終ってしまうという危機感から、親子で本当に来る日も来る日もあの手この手で練習を重ねてきた。この子には何が足りなくてどこを修正すればいいか、どんな気持ちなのか、どういえば感覚的なものが伝わるのか、必死に模索を重ねてきた。彼も、小学生の遊びたい盛りの気持ちを抑え、きつい練習に弱音を吐くこともなく真剣に一つひとつに取り組んでくれた。その甲斐があり、夏を迎える頃には、二塁ベースまで山なりでしか届かなかった送球が、投手の頭の少し上を鋭く一直線に届くようになった。捕手として機能し始めた。そうなると、チームの守備全体が変わり失点が格段に減った。守備の不安がなくなれば、自然に攻撃にも余裕が出始め、ヒットの数と得点力が上がり、だんだん投打の歯車が合い、纏まりと安定感の出てきたチームは、夏の県選手権宮崎市予選で優勝、勢いそのままに県大会を優勝で飾り、秋には県代表として、九州大会に出場を果たした。この一年、練習試合で、県内あらゆる所に出向き、強いチームと試合を重ねてきたが、完全に力負けだと感じる相手はいなかった。贔屓目なしに実力は県内トップクラスにあったと思う。このチームの正捕手を堂々と存在感を示しながら勤め上げた彼は、私の想像以上であり誇りである。チームの主力として数々の修羅場を経験した事もこれからの彼の人生の大いなる糧となってくれることも間違いない。これからどんな野球人生を送るかは分からないが、この学童野球の3年間は、心身共にとても苦しかったが、親子で同じ目標を共有し深くコミュニケーションをとる事のできた掛け替えのない時間だった。否応なしにでも「2」を背負う事がなかったら持つ事の出来なかった時間かもしれない。彼の逞しく戦う雄々しい背中をスコアラーとしてこんなに近くで見れたことは本当に幸せだった。いつまでも、泥にまみれながら必死に楽しく笑顔で白球を追う彼の姿を見続けたいと願うばかりである。
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