平成24年12月号
(第176版)
〜 13年目 〜
  
サンヒルきよたけ 介護職 結城

 さて、2回目のエコーリレーが回ってきました。2000年10月にサンヒルに入職してから、早12年が経過しました。当時は24歳でしたが、あっという間の12年で36歳になってしまいました。この12年で感じる事は、「歳をとったな〜」という実感です。20代の血気盛んな?頃と比べれば、今の体力は半分以下にまで落ちたのではないかと思います。
小学3年から続けていたバレーボールを、6年前の三十路を期に引退しました。このバレーだけは続けたかったのですが、怪我や体力の衰え、諸事情によりスパッと引退し、現在はバレーボールを触ることすらない生活を送っています。私の性格上、白か黒という両極端な性格で、時々は試合会場に顔を出そうかなと思った事も度々あったのですが、バレーに対する未練が残る気がしましたので、今後は一切関わらない!という事に決めました。実際のところ本当はまだ、バレーを始めたいのですが・・・(未練あり)。
 現在続けている事としてサーフィンがあります。1年間を通して海に入っている訳ではありませんが、春先から11月位まで入っています。冬場入らないのは、いくつか言い訳があり、冬用のウエットスーツが無い事、身体が動かない事、腰痛がひどい事、海から上がった後の着替える時に寒さに耐えられない事(これが一番の原因かな)です。でも、夏場は海に入る回数が多いため、顔や身体は真っ黒になり、海から帰ってくる度に嫁から一言「ごぼうみたい」と言われています。サンヒル内でもサーフィンをしている職員が何名かいます。20代まではよく一緒に海に入っていました、K名副主任や、K木部長、それが今や見る影もない。いやっ影はあるが、お腹が突き出たムーミンのようになっています。たまに「久々海にでも入ろうか!」と誘えば、「け死ぬ!」か「死ぬるが!」の一言。
 もう一つ続けていること、20代後半から始めた嫁と夜のウォーキング(時々ランニング)です。20代当時の私は、そんなことしても大した効果はないと思い(バレーもしていた事もあり)あまり行かなかったのですが、ここ最近では、歩くことの大事さを日々実感します。仕事で身体が疲れている時なども、ウォーキングや軽いランニングをする事で、身体が楽になります。また、体力維持にも繋がります。(あっ、採血の結果が良くなりました)。そして、嫁との会話が多くなりました。誤解のないように、もちろん自宅内でもコミュニケーションは図れていますが、このウォーキングの時間は色々な話をする事ができ、2人にとって良い機会だと思います。
 最後にもう一つ、30代になってから本を読むようになりました。世間一般の方々からすれば遅いわ!と思うかもしれません。特に読むのがビジネス書を読んでいます。少しでも仕事や人生に役立つような本を読もう!と思い始めました。今まで気づかなかった事、経営者の考えや、今後の方針などを色々知ることができ、私自身にとっては、危機感を持たせてくれる良い習慣になったと思います。
 これが、最近の私自身です。まだまだ足りないところは多々ありますが、今後もがんばっていきます。

〜 子供の頃の思い出 〜
 
迫田病院 看護師  川野

 H24年4月よりお世話になっております。よろしくお願い致します。
 何を書こうか迷ったのですが、子供の頃の話を書こうと思います。
 出身は北海道で4歳まで住んでおりました。一番印象に残っていることは、とにかく雪かきをした雪の壁がとても高かったことです。父が出張から帰って来ると、屋根の雪と地面の雪がつながり、家が埋もれていたことがあったと聞きました。外で遊んでいて雪の上で眠ってしまい凍死しそうになったこともありました。3歳頃からプラスチックのスキーを履かされ、臆病だった私は泣きながら背中を押された記憶があります。
 小学校3年生までは宮城県に住んでおりました。今回の東日本大震災では、思い出の小学校や幼なじみの家も流され、友達とも一時連絡が取れず、眠れない日々を過ごしました。日本3大祭りのひとつ「仙台七夕祭り」が盛大だったこと、松島が綺麗だったことはよく覚えています。いつか私の記憶にある、あの宮城県に戻る日が来ることを祈っております。
 中学校2年生までは、青森県のとある村に住んでおりました。ここはとても田舎で、方言が激しい地域でした。しかし転校生が多い地域であったため、みな転校生にも分かるように標準語に変換して話かけてくれました。多少訛りはありましたが、言葉で苦労したことはありませんでした。環境は厳しく、強風が地面の雪を巻き上げ、ほんの30p先も見えない「地吹雪」の中、集団下校することも多くありました。学校の授業には歩くスキーがあり、夏の水泳では水温がなかなか上がらず、水温上昇を待っていたら授業が出来ないと16℃のプールに入れられ、全員口唇チアノーゼになり慌てて中止にされたこともありました。おかげで私はほとんど泳ぐことは出来ません。学校の裏山にはロープウェイのあるスキー場があったので、学校帰りにスキーで遊んで帰ることもありました。海外交流が盛んで留学生や留学制度もあり、英語の先生も常勤で海外の方が努めているという、田舎ですが、考え方は都会のような地域でした。
 そして、中学校3年の頃に宮崎県へ引っ越してきましたが、初めての南国暮らしのためカルチャーショックの連続でした。まずは一番苦労したことは「方言」でした。問題であったのは、宮崎弁が標準語だと思っている方がとても多く「あんた、てげなまっちょ〜。なんいっちょっかぜんぜんわからんじ〜。」と言われた時には、まるで韓国語を聞いているような気分でした。かれこれ○十年・・・すっかり宮崎に染まり、現在は宮崎弁以外を話すことはできなくなりました。地域が違えば校風も全く異なり、髪が肩に付かないよう切らなければならないことや、自転車に乗る際にヘルメットが必要なこと、スクールバスがないこと、合服という制服があること(東北では夏休み明けにはすぐひんやりするので、冬服になる)などなど、挙げるとキリがありません。
 今では身も心も宮崎人な私ですが、縁あってこの迫田病院で働かせて頂くことになりました。まだまだ分からないことだらけですが、がんばりますので、これからもどうぞ宜しくお願い致します。